街はエイトビート~千本三条と四条大宮を斜めに結ぶ「後院通り」コラム
~昭和生まれのRock人間が街の風景を紹介 もりもり
京都市の中心地域は、南北の通りと東西の通りが垂直に交わる道路形状をしています。
従って、ある交差点で左に曲がり、次の交差点でまた左に曲がり、3つ目の交差点も左に曲がれば元の場所に戻ります。
これが京都人の方向感覚です。
この感覚で旅先の街などで同じように歩いたりしますと、思ってもいない所に出て迷子になってしまいます。
京都人らしい迷子の形です。
京都市の通りは、西暦794年に日本の首都となった平安京の構造である「条坊制」によって、このように整備されました。
その後、いろいろと形を変えつつ現在でも京都市の中心部はいわゆる碁盤の目のような道路形状となっています。
その京都市の中心地域で、珍しく斜めに走っている道路があります。
千本三条と四条大宮をほぼ斜め45度に結ぶ「後院通り」です。

この通りはしかし、稀な方向に設置されているため、垂直に交わる道路に慣れた京都人には錯覚が起きやすく、一昔前まで悪徳タクシー運転手の格好の儲け場所となっていました。
(このことについてはこのサイトで以前にも少し触れたことがあります。
例えば、四条大宮を少し南に下がった所からタクシーに乗った乗客の目的地が今出川堀川であるとしましょう。
目的地は乗車場所の北東の方向にありますから、1つの最適なルートは四条大宮の交差点を右折して四条通りを東に走り、次に堀川通りを左に曲がってそのまま北上するというものです。
しかし、悪徳タクシー運転手は四条大宮から後院通りへ進み、目的地とは異なる方向である北西へと走り、またどこかから東へと戻って堀川通りに出たりします。
斜めの道を悪用して余計に走る距離分の不適切なメーター料金をお客さんに支払わせるわけです。
少し前まで、この手法は決して少なくなく、タクシー利用の多かった私は何人もの運転手にそのつど指摘しましたが、皆確信犯と思われました。
彼らは、指摘されると急にオドオドとして言い訳を始めるか、あるいはガラの悪い言葉で恫喝的に反論します。
しかし、最近はGPSで運行管理がされるようになり、会社が調べましたらどこをどのように走っていたのか一目瞭然ですから、後院通りを悪用する運転手もいなくなりました。
・・・と思っていましたら、昨年私は実に久しぶりにそのようなタクシーに乗ることとなりました。
私が指摘いたしますと、もう本当に勘弁してください、料金は要りません等々と平身低頭でした。
もちろんそんなときにも料金はメーター通りに支払うのが私の主義です。
料金を安くする目的で指摘しているのではありません。
通常の私でしたら、その場でメーター料金を支払って下車し、次のタクシーを探します。
運転手が開き直って大声でもあげましたら、タクシー会社の社長さんも警察も運輸局もお呼びいたします。
ところが、このときは大雨の降る深夜で、無線で呼んでもらってもなかなか来てくれなかったタクシーでした。
なおかつそのとき私は、激しい腹痛で病院の夜間緊急窓口へと運んでもらう目的でしたので、情けなくも日和って見逃してしまいました。
もちろん、日和っても料金はメーター通りに払います。
さて、碁盤の目のような道路配備の京都で、この斜めの後院通りはどのように成立したのでしょうか?
後院通りは、千本三条と四条大宮を結ぶ通りですが、それは明治時代に京都市三大事業(*1)の一環として路面電車敷設と同時に街路建設を行うために建設されたものです。
つまり市電を走らせるために作られた通りなのです。

そのときに、何故斜めの道路となったのかについては、2つの説があります。
1つは、千本三条以南の千本通は住宅街ではなく農地の広がる地域であったため、そこに市電を通しても利益を出すことが難しいと考え、四条大宮以南の大宮通りを拡張し、その連絡道路として斜めに道路を建設したというもの。
今1つは、本来なら市電は千本通をまっすぐ四条通まで下がるはずでしたが、三条から四条の間にある銘木街の材木商が市電開通による町の分断に対して反発したため、仕方なく斜めの道が作られたというものです。
後段の説は、当時の材木商の力の強さを表す例としてたびたび登場する説ですが、これを現実的に証する文書なども残っておらず、前段の説が妥当ではないかと思われます。
そして、明治45年6月に京都市電気軌道事務所(後の京都市交通局)が発足し、千本線、大宮線を開通させて運行を開始しました。
この斜めの通りは、昭和3年の路線名改称時までは「車庫前通り」(*2)と呼ばれていましたが、その時以降に後院通りと称されるようになりました。
さて、ここで気になりますのは、この後院通りという道路名がどのようにしてつけられたのかです。
この件についてはいろいろと調べたのですが、私は直接的な資料を見出すことができませんでした。
安易な私は、専門家=京都市埋蔵文化財研究所のOBの方に依頼して調べていただきました。
非常に詳細に調査していただきましたので、それを過不足なく披露しますと、かなりの文章量が必要となります。
簡単に申しますと、当該の地域に「四条後院」が存在していたからということになります。
先にも書きましたが、京都市の通りは、平安京の構造である「条坊制」によって、南北の通りと東西の通りが垂直に交わる碁盤の目のように整備されています。
その分割された南北の列を坊と呼びます。
ちょうど後院通りのある坊に「四条後院」が存在していたのです。
後院とは天皇の譲位後の御所のことで、天元3年11月の大内裏炎上の後には円融天皇が四条後院に行幸され一時皇宮となりました。
その名を後代の京都の人々がよく伝えていたということではないかということです。

現在の後院通りは、昔からの喫茶店や新しい飲食店などが並び、四条大宮の街のディープな一角を形成しています。
バンド活動をしている私的には、古くからの楽器屋が並ぶ光景に親近感を覚えます。
昼から立ち飲みのできる若者向けの店なども増えてきました。
後院通りがもう少し面白くなれば、現在少し元気のない四条大宮復活のカギになるかもしれません。
(注釈) *1 京都市三大事業とは、明治から大正にかけて行われた都市基盤整備事業で、「第二琵琶湖疏水開削」、「上水道整備」、「道路拡築および市電敷設」の3つを言います。 *2 この通りの沿線に壬生車庫が設置されていました。現在の市バスの壬生操車場、中京警察署、さらには壬生坊城団地辺りに広がる場所です。 |
投稿者プロフィール

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1955(昭和30)年、東京は世田谷生まれ。
その後、愛知県岡崎などを経て、京都市に到着。
65歳時に癌を患い、抗癌剤の副作用等々で、それまで毎週の芝刈り生活を終了。
現在は専ら家庭菜園で、暑い寒いと文句を言いながら土を耕し中。
今もRock BandでBassなどを担当。
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