京都と中京区の歴史 幕末編 その2「尊皇攘夷と京都」

(前回までのあらすじ)

1853年にアメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来航し、開国を要求したことにより、日本は太平の眠りから覚めて混乱の時代へと突入します。条約問題、将軍の後継ぎ問題をめぐって幕府は迷走し、京都の朝廷が存在感を増していきます。開国に反対する人々は、天皇をうやまい、外国人を追い払おうという「尊皇攘夷」運動を始め、世の中は騒然とします。

京都のへの影響

ペリー来航は、日本国中に大きな衝撃を与え、京都も大きな混乱に巻きこまれることになりました。

アメリカと通商条約(貿易をするための条約)締結をめぐって国内が対立すると、混乱をおさえることができない幕府は、京都の朝廷に条約を結ぶ許可を求めました。これをきっかけに朝廷は政治への影響力を増し、幕府の政治に口出しするようになります。
それを見た有力大名は朝廷に接近するため、京都に新たに藩邸を購入したり、すでにある藩邸を拡張するなどして、多くの藩士を京都に送り込みました。

また、多くの尊皇攘夷派の志士たちが京都にやってきたことで、人口が一気に増えました。
過激な志士たちが増えたことで治安が悪化し、多くの殺傷事件がおこります。犠牲者の多くは佐幕派(幕府を支持する人)や公武合体派と呼ばれる人々でした。

「日米修好通商条約」が締結されて外国との貿易が始まると、日本の良質な生糸が輸出品として外国に流出し、そのあおりを受けて京都・西陣の織物産業が大打撃を受けます。このため生糸の商人や外国貿易の商人に対する反感がつのり、殺傷事件や家や蔵への襲撃事件が多発しました。

尊皇攘夷と公武合体

各地では外国人への襲撃事件が相次ぎ、京都では尊皇攘夷派の志士たちの活動が活発になりますが、幕府の力は衰え、この混乱をおさめる力はもうありません。そのため、幕府と朝廷が協力して幕府の力を強化しようという考え方が登場しました。これを「公武合体」といいます。

「公」は朝廷、「武」は幕府のことです。

和宮の降嫁

孝明天皇には和宮という妹がおり、和宮には有栖川宮という婚約者がいましたが、公武合体を進めるために14代将軍・家茂に降嫁(皇族が臣下に嫁ぐこと)させられました。

寺田屋事件

薩摩藩主の父・島津久光は、幕政改革を進めようと兵を率いて上洛(京都へ行くこと)します。

久光自身は公武合体派なのですが、薩摩の過激な尊皇攘夷派は久光が倒幕の挙兵をするのではないかと期待し、伏見の寺田屋に集結しました。

久光はこれら過激派の暴発をおさえようと、藩士を寺田屋に向かわせます。しかし説得は失敗して同士討ちとなり、多数の死傷者が出ました。これを「寺田屋事件」または「寺田屋騒動」といいます。

このように、ペリー来航以降の政局の変化は京都にも大きな影響を与え、京都の治安は急速に悪化していったのです。

その頃中京区では

木屋町は京都の玄関口であり、繁華街であることから、諸国から京都にのぼってきた志士たちの絶好の隠れ場所となります。そのため、この界隈で多くの暗殺事件や襲撃事件がおこりました。

本間精一郎遭難地

本間精一郎(ほんませいいちろう)は越後(現在の新潟県)の人で、上洛して尊皇攘夷運動に身を投じます。しかしその過激な言動が同志から嫌われ、木屋町で暗殺され、四条河原でさらし首にされました。

暗殺の実行犯は、幕末の四大人斬りである土佐(現在の高知県)の岡田以蔵(おかだいぞう)と薩摩の田中新兵衛だといわれています。

本間精一郎遭難地
京都市中京区下樵木町2丁目208

佐久間象山 大村益次郎遭難の地

佐久間象山(さくましょうざん)は信濃(現在の長野県)松代藩士で、兵学者・思想家。洋学・砲術を学び、開国論をとなえました。門人に勝海舟(かつかいしゅう)や吉田松陰(よしだしょういん)、橋本左内(はしもとさない)、河井継之助(かわいつぐのすけ)、坂本龍馬などがいます。

一橋慶喜に招かれて上洛し、三条木屋町にて肥後(現在の熊本県)の河上彦斎(かわかみげんさい)によって暗殺されました。
河上彦斎も幕末の四大人斬りの一人で『るろうに剣心』の主人公のモデルになった人物です。

佐久間象山・大村益次郎遭難の地
京都市中京区一之船入町

次回、京都と中京区の歴史 幕末編 その3「新選組と京都」に続きます。

投稿者プロフィール

kumasaki
kumasaki
大阪で生まれ育ち、SEやDTPデザイナー・オペレーターを経て、京都の某情報誌でいつのまにか編集・ライターになってました。読書と酒と犬をこよなく愛し、面白そうなことに首を突っ込みます。

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