新選組が名をあげ 明治維新を遅らせた「池田屋事件」と吉田稔麿ゆかりの地4選+1

幕末、京都三条の旅宿・池田屋に集まった尊攘派の過激志士を新選組が襲撃した「池田屋事件」。この事件で明治維新が数年遅れたといわれ、新選組をスターダムにおしあげた大事件です。
池田屋があった中京区の三条木屋町周辺には、池田屋趾をはじめ、過激志士のリーダー的存在だった吉田稔麿に関連するスポットが複数あります。

明治維新を遅らせた?「池田屋事件」とは

1864(元治元年)旧暦の6月5日(現在の7月なかば)、祇園祭の宵山の日。
この日、三条木屋町の旅宿・池田屋に、長州藩・土佐藩・肥後藩を中心とする尊王攘夷派の志士が集まりました。

この日集まった志士たちは、京の町に火を放ち、中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜(のちの15代将軍)・松平容保(会津藩主・京都守護職)らを暗殺、孝明天皇を長州に連れ去り、幕府を倒す足がかりにしようとする、もっとも過激な一団でした。

これより先、新選組は四条で「枡屋喜右衛門」と称して炭薪商を経営する古高俊太郎を捕らえ、この企てをかぎつけていました。

しかし、志士たちが会合している場所まではわかりません。
新選組は数隊に分かれて探索を行い、近藤勇が率いる隊が池田屋に志士たちが集まっていることを発見します。
およそ30人いる志士たちに対し、近藤隊は数名ほど(諸説あります)。圧倒的に不利な状況にもかかわらず、近藤隊は池田屋に踏み込みます。

多勢に無勢で苦戦する新選組ですが、やがて土方歳三が率いる隊もかけつけ、戦闘は新選組の勝利に終わりました。

この戦いで肥後の宮部鼎蔵や長州の吉田稔麿など、尊王攘夷派の中心人物を含む7名が死亡し、23人が捕らえられました(諸説あります)。これにより尊王攘夷派は大打撃を受け「明治維新が数年遅れた」といわれています。

一方、京都焼き討ちの計画を未然に防いだことから、新選組の名は天下に鳴り響きました。
ただし、志士側の陰謀は新選組によるでっちあげだという説もあり、実際はどうだったのかはわかりません。

松下村塾の四天王・吉田稔麿

池田屋事件で命を落とした吉田稔麿は、池田屋での会合に参加した志士の中では宮部鼎蔵とともにリーダー格だった大物志士です。
長州に生まれ、吉田松陰松下村塾に学び、高杉晋作久坂玄瑞とともに「松陰門下の三秀」とも、さらに入江九一をいれて「松蔭四天王」とも呼ばれます。

池田屋事件の際、新選組が踏み込んだときには席を外しており、池田屋の外にいました。しばらくして戻ると新選組が池田屋の周辺を取り囲んでおり、奮闘の末に討ち取られたとされています。

「秀才」「逸材」とうたわれながら23歳という若さで亡くなった稔麿ですが、明治維新後まで生きていたら「総理大臣になっただろう」という意見もあるほど、高く評価される人物です。

京都・中京区にある吉田稔麿ゆかりの場所4選+1

長州の大物志士のひとりであり、生きていれば明治維新政府をリードする立場になっていたであろう吉田稔麿
「歴史にifはない」とよくいいますが、この人が長生きすれば伊藤博文山県有朋らの出番はなかったかもしれません。
そんな吉田稔麿にゆかりのある地が中京区には複数存在します。

長州藩邸跡

現在、京都ホテルオークラがある場所には、江戸時代まで長州藩邸がありました。

池田屋からは北に歩いて数分ほどの場所にあります。池田屋事件の際、池田屋から脱出した稔麿は長州藩邸まで知らせに走りますが、門は開けられることなく、門前で自殺したという説や、長州藩邸から池田屋に戻ろうとした途上で討ち死にしたという説もあります。

現在は京都ホテルオークラの敷地内に「長州屋敷址」の石碑と長州藩の中心人物だった桂小五郎(木戸孝允)の銅像が建てられています。

長州藩邸跡

京都市中京区一之船入町(京都ホテルオークラ前)

池田屋騒動之址

池田屋は京都木屋町三条にあった旅籠。池田屋に潜伏していた尊王攘夷派の志士を新選組が襲撃したことによって池田屋事件がおこりました。

池田屋から東に行くと三条大橋があり、三条大橋の西側から2つ目の擬宝珠(ぎぼし)には、池田屋事件の際についたという刀傷が残されています

事件後、主人の池田屋惣兵衛は志士をかくまっていたとして捕縛され、獄死します。
しばらくして池田屋は営業を再開しましたが、現在は廃業して存在しません。1960年ごろまでは当時の建物が残っていたそうですが、残念ながら取り壊されてしまいました。
今は跡地で新選組をテーマにした居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」が営業しており、店の前に「池田屋騒動之址」の石碑と説明板が設置されています。

池田屋騒動之址

京都市中京区中島町78

吉田稔麿終焉の地

河原町御池の南西角には「此付近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」の石碑が建てられています。池田屋と長州藩邸の中間にあり、このあたりで稔麿が討ち死にしたとされています。

面白いのが、この石碑の別の面には「山本覚馬・八重邸宅跡」とあること。
山本覚馬は幕末の会津藩士で砲術家。明治後は京都府政に携わりました。八重はその妹で、会津戦争で戦い、明治後は新島襄と結婚して女子教育やキリスト教の布教を行いました。大河ドラマ『八重の桜』の主人公として有名ですね。

覚馬と八重は明治のはじめごろ、この地に住んでいたとされます。
倒幕側の代表である長州と幕府側の代表である会津、相対する両方にゆかりがあるとは珍しいスポットですね。

吉田稔麿終焉の地

京都市中京区河原町御池交差点南西側

久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡

長州藩邸跡より北の法雲寺の入り口付近には「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡」の石碑が建てられています。

久坂と稔麿は、対立する長州藩の重臣・長井雅楽(ながいうた)の殺害計画をたて、それがもとで法雲寺で謹慎処分となりました。石碑はそれを表すものです。

この石碑には別の面に「此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地」とあります。

望月亀弥太(もちづききやた/かめやた)は土佐藩士。坂本龍馬とともに勝海舟のもとで航海術を学びますが、池田屋事件に遭遇します。なんとか脱出しましたが、法雲寺の南で力尽きて自殺しました。

久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡

京都府京都市中京区清水町(法雲寺前)

石碑のまた別の面には「此南西 吉田稔麿所縁 塩屋兵助宅跡伝承地」とあります。
塩屋兵助宅は、稔麿が定宿としていた場所です。いろいろと調べて伝承地とされる場所に行ってみたのですが…

面影ナッシング。

おそらくこのへんのはずなんですが…
跡地を指し示すものはなにもないようです。

明治維新を遅らせるほどのインパクトがあり(実際にはどうかわかりませんが)、新選組をスターにした池田屋事件と、中京区の吉田稔麿ゆかりのスポットをご紹介しました。
池田屋・長州藩邸跡・吉田稔麿終焉の地と順にまわると、その位置関係や池田屋事件当日の動きがリアルに感じられますよ。歴史ファン・幕末ファンの方はぜひ。

投稿者プロフィール

kumasaki
kumasaki
大阪で生まれ育ち、SEやDTPデザイナー・オペレーターを経て、京都の某情報誌でいつのまにか編集・ライターになってました。読書と酒と犬をこよなく愛し、面白そうなことに首を突っ込みます。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です